「善悪は人それぞれ」という悪

多様性が重要視される現代社会では、

「善悪なんて人それぞれだよねー」と言ってる人を所々で見かけます。

僕としては、この考え方はおかしいと思ってる人間なので、今回はそんな思想をズタズタに切り裂いていきたいと思っているわけです。

まぁ、一見すると人の個性を尊重してそうな雰囲気があるし、これを言うだけでなんとなく思慮深くなったような気分になるのかもしれないですが・・・

 

この考え方は哲学の世界だと「相対主義」といって、すべての道徳観は人によって違うのだと言ってるわけです。

しかし、この考え方は明らかにおかしい。

相対主義が「すべての道徳は相対的である」と言うとき、それ自体が絶対的な主張になってしまってるわけなので、矛盾してますよね。

 

そもそも「善悪は人それぞれ」って、普通におかしい。

 

例えば、これは僕が過去の職場で体験したことなんですが、

約1年前、職場のチーム内で陰湿ないじめが起こったときに、上司がこう言ったんです。

「これはどちらが悪いとは言えないよね」と。

僕はこの時(あ、この上司逃げやがったな・・・)と思いました。

この上司は、善悪のジャッジを下す責任から逃れるために、中立に逃げたわけです。ちなみに被害を受けた子は一ヶ月も経たないうちに辞めました。

 

いじめでどちらが悪いかなんて明らかなはずなんですが、加害者が多数派だったからなのか何なのか、不自然なくらいに中立に逃げてたなぁという印象です。

確かに、中立ってかなり安全なポジションなんですよね。だからこそタチが悪い。

 

「まぁ社会ってそんなもんだよね」という意見もあると思いますが、そういう卑怯者が集まる社会だからこそ、善悪の基準を主観に委ねてはいけないんだと思っています。

こういう考え方が蔓延するから、被害者側も「自分にも何か悪いところがあったんじゃないか」とか余計なことを考えるようになるんじゃないでしょうかね・・・

 

まぁそれはさておき、

物事の善悪は、主観ではなく客観的な物差しで判断できるはずだというのが今回の記事で一番の核となる部分です。この考え方はオブジェクティビズムという、アメリカの思想家であるアイン・ランドが提唱した哲学に基づいています。(オブジェクティビズムについては適当に調べてみてください。)

もちろん、どちらにも非があって判断が難しいケースもあるのは確かです。

重要なのは、中立のポジションに逃げないことだと思っています。

中立はあくまで問題の全体像を見渡すための一時停止の場所であって、目指すべき場所ではない。

 

結論として、「善悪は人それぞれ」という主張は単なる逃げ文句でしかないので、騙されないようにしようってことです。

「老害」を滅ぼす

僕達って、親や会社の上司などから的外れな小言(もしくは説教)を言われたり、理不尽な仕打ちを受けたりしたときに「老害」って言葉を使うことがあると思うんです。

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ただ思うのが、僕自身はここ最近「老害」という言葉をあまり使わなくなったなーという気がしているんですよね。

というか、実際使ってないですね。

少なくとも23歳以降は...

 

一応ここで「老害」という言葉を定義をしておきたいと思います。

年齢は50代以降とした上でGoogleで調べてみると...

自分が老いたのに気づかず(気をとめず)、まわりの若手の活躍を妨げて生ずる害悪

だそうです。そのまま引用しました。

主に企業や政治の世界で使われているようです。

 

そう考えると、この「老害」という言葉はだいぶ一人歩きしているように感じますね。

まず、このニュアンスで「老害」という言葉を使ってる人を見たことがない。

そもそも「若手の活躍を妨げる」ような害悪をもたらす状態ってかなり限定されてますよね。

少なくとも、親や上司に的外れな説教をされた程度で若者の活躍が妨げられるとは到底考えにくい。

 

おそらく、多くの人は「老害」を拡大解釈して使っていると思います。

あえて定義をし直すとすれば、

老いた人が、若者に意見や価値観を押し付けることで生ずる迷惑

きっとこれに近いニュアンスで使ってるのではないでしょうか?

 

だとしても、おかしな話です。

何故なら、意見や価値観を人に押し付ける行為自体は老人だけでなく若者でもやるからです。

 

これって結局、老人と若者の対立に過剰なスポットライトを当てているだけなのでは、、、?と思ってしまうんですよね。

 

すると、こんな反論をされるかもしれない。

「いやいや、時代背景を無視した価値観を押し付けてくるから老害なんですよ」と。

 

しかしこれも、自分の中の偏った思い込みを過度に一般化した結果起こることです。

時代や国、環境であったり、物の見方を支えているバッググラウンドが違うだけです。

これらに基づいて偏った見方をする傾向をステレオタイプもしくはバイアスと言ったりします。

簡単に言えば、先入観や思い込みですね。

 

そしてこのステレオタイプ的な物の見方は、老若男女問わず誰しもが持っているもので、大抵の意思決定はそれに基づいています。

老害」という言葉だって例外ではないと思います。

結局は、人を特定のカテゴリに入れて単純化したいんです。そうすれば複雑なことを考えなくても済みますから。

若者も、老人を一般化をして「老害」とカテゴライズしているわけです。

それと同じように、老人が若者を一般化することもあれば、世代を一般化して意見する傾向もあるというだけの話でしょう。

そして両者ともそれらを押し付け合っているに過ぎない。

 

何が言いたいかというと、本質はみんな同じだよねってことです。

 

価値観を押し付けてくるのは老人だけではないです。

 

まぁ、歳を取れば取るほど凝り固まってしまったり、それが上下関係で起こりやすいものだというのは否定しません。さらにそこに権力やステータスが加わってくると、それを手放したくないという心理も働きます。経験値が増えればさらにこの傾向は強まります。

人は自分の経験に縛られますからね。

するとどうしてもコミュニケーションが一方通行になりがちで、それに対抗するような意識もあって「老害」という言葉が生まれたのかもしれない。

昨今では、「若年老害」とか「ソフト老害」なんて言葉も出てきてますしね。

そう考えると、理解できなくもないですね。

 

ただ、無闇矢鱈にカテゴリを増やせばいいってものではないと思うんです。

それによって本質が見えなくなってしまう危険性も考えなければいけない。

 

言葉によるカテゴライズは分断を生みますから、あまり安易にしない方がいいんじゃないかなーと思うわけです。結局は差別と同じですからね。

もちろん、人に価値観を押し付けるという行為自体は良くないものですし、年配による若者いびりは老害とか以前にパワハラモラハラになりかねない。それはそれで行為としての悪を叩くべきですね。レベルに応じて。

 

僕としては、年配の方の意見や価値観には普遍的なものも確かにあり、それらを見極めれるようになることは僕達若者にとって必要な能力なのかなーと感じています。こういう不確かな世の中ですしね。

誰の意見だろうと多かれ少なかれその人のフィルターがかかってるわけだから、同じように尊重した上で自分に取り込むかどうかを判断すればいい。

あとは少しでも無益な分断が減ればいいなーと思ってたりもしますね。

 

少なくとも、老人が何かを主張する=老害みたいなのにはなってほしくない。

本当の悪が見えなくなってしまうから。

老害」という言葉は一旦滅んでしまった方がいい。

 

それに、今はSNSで誰もが意見を言える時代ですし、老人に何かを言われたところで大した影響はないですよ。

昔みたいに村社会とかだったらまた違ってくるかもしれないですけどね(笑)

 

まぁ、SNSで誰もが意見を言えるからこそ分断が加速している側面もあるから難しかったりするのですが、、

 

結論、この世に老害なんていないよってことで。仮にいたとしてもそれほど多くはいないはず。

「自信がある」は大抵怪しい

僕は子どもの頃、親や周りの大人達から「自信を持て!」と言われながら育ちました。

皆さんもそんな経験が多かれ少なかれあるでしょう。

当時の僕としては「いやぁそんなこと言われてもなぁ...」という感覚でした。

 

人が「私には自信がある」と言うとき、なんとなく周りの期待感が高まります。そう言ってる本人もきっと自信があるのかもしれない。たとえ根拠がなかったとしても。

 

ただ正直、この「自信がある」という言葉には違和感というか、大きな矛盾を感じざるを得ないんですよね。

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そもそも「自信がある」と言うときって、どんな時でしょうか?

僕は大きく分けて3パターンあると思ってます。

①自己認識が欠如している

②とくに何も考えていない

③本当は自信ないが認めたくない

この3つに共通しているのは、能力の不足です。ここで言う能力というのは、経験や知識も含みます。

人には、能力や知識が不足している分野に対してやたらと自信過剰になるという不思議な傾向があります。心理学で言うところのダニング=クルーガー効果ですね。これは特に①と②にあてはまります。③は単純に自己愛と不安が混ざり合ってる感じですね。

物凄く簡単に言えば、弱い犬ほどよく吠えるということです。

 

確かに、思い当たる節はあります。

僕達って、身近な人や有名人を指して

「あいつよりは俺の方が絶対賢い自信あるわ」

「さすがにあんな奴には負けない自信あるぞ」

って言う時、ありますよね。

でもこういうときって、大抵はどんぐりの背比べなんですよ。

 

考えてもみてください。

小さい子どもにも同じセリフを吐きますか?

多分吐かないと思います。

何故でしょう?

 

それは、自信のある無しに関わらず、自分がその子どもより知的にも肉体的にも優れていることを"知っている"からです。(多くの場合)

 

もう一個質問します。

あなたは1人で自力で服を着れますか?

 

「なんて失礼な!着れるに決まってるだろ!」と答えるはずです。

 

でも自信があるとは言わない。

それは、あなたが1人で自力で服を着れるということを"知っている"からです。

なのでわざわざ自信を持ち出す必要がない。

 

どうやら自信というのは、多くの人が期待するほどの価値はあまりなさそうです。

もちろん、時には自信があるように振る舞わなければいけない場面もあります。その場合は見せ方や演出の問題なので全くの別です。(格闘家の試合前のパフォーマンスとか)

 

次に考えてみたいのは、

「自信がない」は悪なのか?という問題について。

あくまで僕の見解ですが、自信のなさは卑屈にさえならなければむしろ利点の方が大きいというのが結論です。

 

自信がない人はそれを受容してる限りにおいては事前に分析や準備を重ねる可能性が高いので、結果的にパフォーマンスを発揮しやすいのではないかと思います。

「自分がもし間違っているとしたら?」と考えるので、もっと勉強したり調べるようになる。

 

ところが変に自信を持っている人は、このままでもいいと思い込んでいるので準備や分析を怠ってしまう。いわゆる慢心ですね。

そういう意味でも、自信満々の人には惑わされないようにしたいですね。自信に満ちた言葉には力がこもってるから、なんとなく説得力があるように錯覚しちゃうんですよね。政治家とか宗教家なんかはそれをよくわかってる。

 

自信というのは結局のところ、自分の空虚さを埋めるための手軽な手段でしかない思っています。カップ麺みたいな感じです。でも大して栄養にならないから、長期的に見ると健康を害する。

逆に言えば、自信がないということは容量の空きがあるという捉え方もできるわけで、それならまずは自信より先に知識や経験を詰め込んでしまおう!なんて考えたりもします。

 

でも確かに、技術や知識量が増えるとむしろ自分に自信が持てなくなっていくんですよね。

例えば僕の場合、色んな書籍を読めば読むほど自分がいかに物を知らないかっていう現実に打ちのめされるんです。そして知らないことも増えていく。

 

しかし専門家レベルにもなると、その辺の自己評価が少しずつ右肩上がりになっていくようです。

グラフで見るとこんな感じですね。

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お、希望が見えてきたぞ。

僕もなんとか右へ行けるように頑張ります(笑)

※このグラフの信憑性については現在議論になっているようなので、あくまて参考程度に留めておいて下さい。

 

「人それぞれ」という無価値な言葉について

僕は、何かしらの意見が飛び交ったときに何でもかんでも「人それぞれだよね」で済まそうとする考え方があまり好きではありません。

 

でも何かで議論になりそうになると、大抵そのひと言が出てくる。

 

そうやって言えば相手の意見を無力化できると思ってるし、実際そうなってしまう。
一種の拒絶です。

 

自分の意見に対して少しでも異を唱えられようものなら「でも私の主観だから」「でも人それぞれじゃない?」と言って防御壁を張るわけです。

個人の主観であれば議論の俎上に乗ることはないと思っているのかもしれません。

 

しかし、本当にそうなのでしょうか?

主観こそ客観的な物差しが必要ではないでしょうか?

人は、主観的で言語化しづらいものと向き合ってきたからこそここまで進化することができたのではないでしょうか?

 

例えば、心理学は統計などの客観的なデータに基づいて、人間の行動から心や感情を分析する学問であり、今ではそれが当たり前になっています。

しかし、昔は科学的手法が確立していなかったために観察研究やケーススタディに頼らざるを得なかった。

心理学といえばフロイトユング、今だとアドラーが有名ですが、彼らの心理学は厳密な科学とは言えず、ほとんど個人の思想的なものでした。

なのでその頃は、「人の心や感情なんて人それぞれだよね」なんて事が言えてしまった時代でもあったと思います。

 

しかし、今では心理学の客観性はより向上しています。ランダム化比較試験などはまさに革命だと思います。

しかしそこまで辿り着けたのは、フロイトユングなどの心理学の巨人たち、そしてそれに続く心理学者たちが、「人それぞれ」を「人それぞれ」のまま終わらせず、真理の探究に努力を惜しまなかったからではないでしょうか?

ここで補足すると、

フロイトユングの心理学が個人の思想的なものであるとは言いましたが、それはあくまで「今と比べて」という意味です。

彼らはその時代にある知見や基準を使って、客観的であろうとしていました。

 

元々は主観でしか説明できなかった物事に、客観的な基準を持たせようと努力をしてきたわけです。

 

僕は自分の意見を言うとき、あるいは自覚したとき、まず「何に基づいて?」という問いを自身に投げかけます。

主観で終わらせたくないからです。

 

主観を主観で終わらせるということは、自分の意見が単なる気まぐれであることを認める事です。

気まぐれであるということは、自分の意見が他人の気まぐれによって簡単に崩れ去るということです。

これを許せば、自分の意見を持つ意味がない。

 

自分の意見が何に基づくものなのかを知らなければ、「正しい」とも「間違っている」とも言うことはできません。

 

僕たちが1+1=2を正しいと言えるのは、それが算数のルールに基づいた答えであると知っているからです。

しかしこれだって、元からそこにあったわけではありません。

神から与えられたものでもありません。

太古の昔に人々が、元は主観だったものを言語化し、議論し、妥当な基準を設けたからです。

 

気まぐれな意見とそうでない意見の違いは明らかです。

客観的な基準や前提に則って、演繹的に導き出したかどうかです。

ちなみに、客観的な基準に基づいている=真理ではありません。

「基準」というのは、言い換えれば「条件」です。

科学の研究で言えば、実験室で得た結果と実社会での結果が同じとは限らない。条件が複雑になるからです。

それでも、何かしらの条件を設定することで、真理に近づくことはできますし、少なくとも「この条件下であればこの答えが正しい」と言う事ができます。

その上で条件を変えたりして追試を行うことで、より良い答えを目指せる。

ベストではなくベターを探すというのが真理の探究です。

 

これは、食べ物の好みに関する議論でも同じ事が言えます。

例えばAさんはブロッコリーが好きだとします。僕はあまり好きではありません。

これを「人それぞれ」と言ってしまうのは簡単ですが、僕はAさんに問いかけます。

僕「ブロッコリーの何がいいの?正直あんまり美味しいと思えないんだけど」

 

Aさん「うーん、味というより食感かな。シャキシャキした食感に、オリーブオイルを和えて塩胡椒かけると最高だね。」

 

僕「でもそれ、キャベツとかでもよくない??」

 

Aさん「まぁ味だけで言えばね。ブロッコリーにはスルフォラファンという抗酸化物質があって、老化対策もできるんだよ。さらにそこにオリーブオイルをかければポリフェノールだって摂れるから、これほど良い組み合わせはなかなかないよ。」

この場合、Aさんがブロッコリーを好むのは、美味しいからというよりも栄養価が高いという食材の知識に基づいた考えであることが分かったわけですね。

僕の健康意識がそれなりに高ければ「あ、それなら食べてみようかな」となるかもしれませんし、思わぬ発見や共通点を見出せることだってあります。

「人それぞれ」で話を終わらせてたら、この発見もなかったでしょうね。

 

つまり、「人それぞれ」であるからこそ議論の対象になるし、その価値があるんです。

 

ちなみにこの記事を書いてる途中で思ったのですが、「意見は人それぞれ」という言葉は同語反復ですよね。ほら、最近流行った小泉論法ってヤツです。

 

意見というのは、その性質からして何者かへの反論です。

「人を殺してはいけない」とわざわざ意見しないのは、「人を殺してもいい」と意見する何者かがいないからです。

 

意見が反論という性質を帯びている以上、「人それぞれ」なのは当たり前なんですね。

わざわざ「人それぞれだよね」と言うのは、「冷蔵庫の中身は冷たいんだ!」と言ってるのと本質的に変わらないと思うんです。

 

とはいえ、これは議論というワードが勝ち負けや自身への否定と連想システム的に結びついてしまってるというのもあるような気もします。

議論の本来の目的を多くの人は忘れてしまってるんですね。

それは真理の探究です。

違う意見を互いに交わすことで、より良い答えを探す。

そういう意味で、議論はむしろ負けた方がおトクかもしれません。

先ほどのブロッコリーの例で言えば、僕はAさんに議論に負けたことでブロッコリーの価値を知ることができたのですから。

 

「人それぞれ」から成長はないんです。

悪夢による癒し

一般的に、悪夢は良くないものとされています。

 

映画やドラマでも、悪夢は不吉の象徴として語られることがほとんどですね。

 

しかし今回は、敢えてその逆を提示してみたいと思います。

つまり、悪夢は悪いものではなくむしろ良いものであるということです。

というのも、悪夢にはトラウマなどの心の傷を癒してくれたり、自分の心の中で起きている不具合を教えてくれる役割があるからです。(海外でもトラウマ治療などのアプローチとして夢セラピーに関する研究が進んでいるようです)

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まず、そもそも人はなぜ夢を見るのか?という根源的なメカニズムについての簡単な説明をしておきましょう。

 

人が夢を見ているとき、脳の中では様々なことが起こります。

そのうちの1つがストレスの発散です。

つまり、夢を見ることによって1日に受けたメンタルのダメージや疲労を回復させているということです。

 

この前提を踏まえた上で、悪夢を見ることの効能について説明していこうと思います。

 

そもそも悪夢を見るのはどんなときでしょうか?

夢には様々な要素が影響するので一概にこれ!とは言えないものの、おそらく精神的に疲弊していたり心に傷を負ったときなどがほとんどでしょう。

夢というのは、その人の感情や記憶、潜在意識を含む様々なイメージがごちゃ混ぜになって映像として現れるものです。

しかし、人間は精神的に疲弊すると鈍感になり、体調の変化や悪化に気づけなくなることがあります。

要は自己認識が甘くなるんです。

そうなると無理に無理を重ね、本当に動けなくなるまで気づけなくなってしまう。

そういう心の状態に気づかせてくれるのが悪夢です。

 

悪夢は疲弊した精神に警鐘を鳴らすだけでなく、マイナス感情の象徴を夢に投影することで不安やストレスを発散するという高度な役割を担っています。

実際、夢を見ているレム睡眠時に脳内の不安を誘発するホルモンが一掃されることが脳科学の研究でもわかっています。

 

このことを知っているだけでも、悪夢は不吉の象徴などではなくむしろ自身の破滅にブレーキをかけるセーフティネットのようなものだと理解できると思います。

風邪をひいたときに熱が出るように、「自分のメンタルが不調を訴えているから少し休もう」と前向きに捉えることが可能になる。

 

ちなみに僕は個人的に悪夢を見るのが好きなので、ときどきゾンビの呻き声を枕元で流しっぱなしにしながら寝ることもあります。もしくは寝る前にホラー映画に没頭することで脳の統率を試みたりもします。

必ず見れる保証はありませんが、僕自身が何度か実証しているように、確率を高めることはできるようです。

 

もし興味があればやってみてください。

ただし睡眠の質が下がったりするデメリットがあるので、もし実行するのであれば休みの前日辺りが無難です。

「自分らしさ」なんて存在しないし馬鹿げた幻想だよっていう話

多くの人は自分探しや自己分析など、自分と向き合う行為を全般的に良いものだと考えているようです。

特に20代を中心に、自分らしくあることや自分を信じるという個人主義の傾向が強まっているような気がします。

しかし同時に、良いものであるはずのそれらの概念について苦悩している人もいるように感じます。

 

なので、今回は敢えてそれらの概念に対し反駁するような記事にしてみたいと思っています。

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おそらくこの先の文章はかなり長くなると思うので結論から言いますね。

自分探しや自分らしさといったものは、全て幻想であり馬鹿げたものです。

それどころか有害ですらあります。

最悪の末路の1つとしては、反芻思考による鬱病などが挙げられますね。

そこまで行かずとも、自分探しで苦悩する人のほとんどは自分探しという名の反芻に陥ってるのだと思います。

 

というのも、自分探しとはそもそもいったい何なのか?ということなんですよね。

僕も一時期悩んだことがあるのですが、正直よくわかりませんでした。

これまで積極的に自分探しなんてしたことがなかったですし、どうやってするのかもわからないといった感じです。

もちろん、自分とは何者なのかとか、そういう漠然としたことについて考えたことは何度かありますけどね。

 

聞く話によると、自分の内面を観察することによって自分らしさを含むあらゆる答えが見つかる、そうです。

 

・・・いやいや、おかしい。

自分の内面を観察した結果、そこに何もなかったということも十分にありえることです。

何故なら個人の知識や認知などを含む内面には一定の偏りがあるからです。

医学的知識のない素人が自身の状態を自己診断する愚かさを考えればわかりやすいでしょう。少し考えてみれば当たり前のことです。

 

もし内面に自己を規定するものが何もなければ、それ以上どんなに掘り起こしても無意味であることは変わらない。

ただただ無が広がっているところに、答えなんか見つかりようもありません。

もしかしたら、無意味なものに意味を見出したりするかもしれない。

それを「よっしゃ見つかった!これが答えだ!」という思い違いをしてしまう。

人間の脳はそういったことが得意です。

 

では結局のところ、自分探しに躍起になる人たちの言う自分らしさとはいったい何なのでしょうか?

 

色々調べてみると、

要は外に見せている自分は偽物で、内側の自分は本物、ということらしい。

 

つまり、自分のやりたいことや感じることに忠実であることこそが自分らしさというわけです。直感を信じるというのもその変形でしょう。

自分自身に従うこと、そして常に自分を信じて疑わないことが大事なのだと。

一見すると、真理のように聞こえます。

 

ただこの考え方が真理なのだとすれば、だいぶおかしな話になります。

何故なら、自分のやりたいことや感じること、つまり自分の内面で生じるあらゆる感情やモチベーションは必ずしも正しいわけではないということが往々にしてあるからです。

そもそも、外面の自分が偽物で内面の自分が本物である証拠だってどこにもないわけですけどね。

 

ムカついた相手を殴るのも、育児に疲れた母親がネグレクトするのも、結局は自分に従っているという点では同じなわけで、それらも正しいということになってしまいます。

そうでなくても、毎日食べたいものを食べたいからといってポテチを食べ続けることや、他人を利用して自己利益を追求することだってそうです。(愚行権とかは抜きにして)

 

なのでむやみに盲目的に自分を信じることをやめて、むしろ疑念を抱くべきだと思うんです。

 

しかしそうなると、自己をどのように規定し、そして自己の感覚をどのように養えばいいのかがわからなくなりそうです。

内面の世界への探究に頼れないとなると、自分の足場が揺らぐように感じる人もいると思います。

 

この問題を解決するには、まずは確固たる自己というのは内面ではなく外の世界や他者との関係性によって規定される、という根本的事実を認識することが最初の第一歩となるかもしれません。

自分が生まれ育ったルーツ、所属しているコミュニティ、友人との関係など、そういった様々なものから自分を切り離すと、結局は自分の内面だけに答えを求めるようになってしまう。

自分の内面に答えを求めることの危険性に関しては、先ほど示した通りです。

 

次に、自己の感覚をどのように養えばいいのかについてですが、僕が今のところ一番納得している答えの1つとして、やりたくないことをやるということが挙げられます。

 

ポテチを食べたくても我慢するという小さなことでも良いし、普段は自転車で買い物に行くのを敢えて徒歩で行ってみる、というのもいいかもしれないですね。

あとはコンビニの募金箱に100円玉を入れてみるとか。

 

つまり、こういった自分の習慣や欲求に逆らった行動をすることこそが、自分が自分である自己の感覚を養うための一番良い方法だと思うんです。

 

習慣や欲求に基づく行動は、自分の意思がなくてもできます。

そういう意味で、やりたくないことを敢えてやってみる価値はありそうです。

もっと言えば、これは下手な自分探しや自己分析よりも、よほど良い自己発見ツールになるかもしれない。

 

そのためには、まずは自分の内面の声を信じるのをやめて、とりあえず疑ってみることが重要だと思います。

その成長意欲が苦しみを生み出す

「もっと練習して上手くなりたい」
「もっと勉強して賢くなりたい」

という台詞をよく見かけます。

おそらく本人達はあまり深く考えずにその言葉を発しているのでしょう。

 

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しかし僕からすれば、これらの言葉は苦しみへ繋がる合言葉にしか聞こえないんですよね。


僕は何かしらの技術や知識を習得しようとするとき、
「もっと上手くなろう」とか「もっと賢くなろう」とは言ったり思ったりしないようにしています。


何故なら、
そういう考え方は自分が意識しているしていないに関わらず、他人との比較に注意が向いてしまうものだからです。


そうなれば、
「自分はこの人より上手い。でもあの人よりは下手」
「自分はこの人より賢い。でもあの人よりは馬鹿だ」

という、無意味なセルフトークが生まれてしまう。

もちろん誰かをロールモデルにするのも悪くはないと思いますが、大抵はモチベーション不活性に陥ります。
挫折する人もいるかもしれません。


能力の伸び方には個人差がありますし、そして何よりも、他人との比較で一喜一憂することに意味がないと思っています。

どれだけ成長したところで、世の中には自分よりもっと上手い人やもっと賢い人がいる。
そんな当たり前のことについて考えたところで苦しみが増すだけです。

他者比較は、成長から得られる喜びを苦しみに変えます。

じわじわと、自分でも気づかないうちに。


Instagramなどで投稿された友人の日常を見て、自分の日常と比べて落ち込んでしまったような経験のある方はこの感覚が理解できると思います。


代わりに、
こう言い換えるようにしています。

「できることを増やそう」
「知らないことを知ろう」

意味はほぼ同じですが、言い方を変えるというのは非常に重要だと思うんですよね。

前者の「上手くなろう」「賢くなろう」は、他人から相対的に判断するために使われる言葉です。

自分はこれが上手い、自分は賢い、
と言うためには、必ず比較対象が必要です。
他者から相対的に見ないと、自分が上手いのかどうかはわからないし賢いのかどうかなんていうのもわかりません。


ですが、できることを増やすのに他者との比較は要りません。
知らないことを知るというのも同じです。

これは他者を必要とせず、対象は常に過去の自分です。


言い方を変えるだけで、他者との比較から過去の自分との比較に自然にシフトします。


そうすると他者を見てもそこまで焦らなくなる。


過去の自分に勝つために、他者を見る必要はないからです。


これを意識するだけでも、人生における苦しみの10%くらいは無くせるのではないでしょうか。


まぁ、他人との比較をスパイスとして欲するならそれも良いのかもしれないですけどね。