多くの人は自分探しや自己分析など、自分と向き合う行為を全般的に良いものだと考えているようです。
特に20代を中心に、自分らしくあることや自分を信じるという個人主義の傾向が強まっているような気がします。
しかし同時に、良いものであるはずのそれらの概念について苦悩している人もいるように感じます。
なので、今回は敢えてそれらの概念に対し反駁するような記事にしてみたいと思っています。
おそらくこの先の文章はかなり長くなると思うので結論から言いますね。
自分探しや自分らしさといったものは、全て幻想であり馬鹿げたものです。
それどころか有害ですらあります。
最悪の末路の1つとしては、反芻思考による鬱病などが挙げられますね。
そこまで行かずとも、自分探しで苦悩する人のほとんどは自分探しという名の反芻に陥ってるのだと思います。
というのも、自分探しとはそもそもいったい何なのか?ということなんですよね。
僕も一時期悩んだことがあるのですが、正直よくわかりませんでした。
これまで積極的に自分探しなんてしたことがなかったですし、どうやってするのかもわからないといった感じです。
もちろん、自分とは何者なのかとか、そういう漠然としたことについて考えたことは何度かありますけどね。
聞く話によると、自分の内面を観察することによって自分らしさを含むあらゆる答えが見つかる、そうです。
・・・いやいや、おかしい。
自分の内面を観察した結果、そこに何もなかったということも十分にありえることです。
何故なら個人の知識や認知などを含む内面には一定の偏りがあるからです。
医学的知識のない素人が自身の状態を自己診断する愚かさを考えればわかりやすいでしょう。少し考えてみれば当たり前のことです。
もし内面に自己を規定するものが何もなければ、それ以上どんなに掘り起こしても無意味であることは変わらない。
ただただ無が広がっているところに、答えなんか見つかりようもありません。
もしかしたら、無意味なものに意味を見出したりするかもしれない。
それを「よっしゃ見つかった!これが答えだ!」という思い違いをしてしまう。
人間の脳はそういったことが得意です。
では結局のところ、自分探しに躍起になる人たちの言う自分らしさとはいったい何なのでしょうか?
色々調べてみると、
要は外に見せている自分は偽物で、内側の自分は本物、ということらしい。
つまり、自分のやりたいことや感じることに忠実であることこそが自分らしさというわけです。直感を信じるというのもその変形でしょう。
自分自身に従うこと、そして常に自分を信じて疑わないことが大事なのだと。
一見すると、真理のように聞こえます。
ただこの考え方が真理なのだとすれば、だいぶおかしな話になります。
何故なら、自分のやりたいことや感じること、つまり自分の内面で生じるあらゆる感情やモチベーションは必ずしも正しいわけではないということが往々にしてあるからです。
そもそも、外面の自分が偽物で内面の自分が本物である証拠だってどこにもないわけですけどね。
ムカついた相手を殴るのも、育児に疲れた母親がネグレクトするのも、結局は自分に従っているという点では同じなわけで、それらも正しいということになってしまいます。
そうでなくても、毎日食べたいものを食べたいからといってポテチを食べ続けることや、他人を利用して自己利益を追求することだってそうです。(愚行権とかは抜きにして)
なのでむやみに盲目的に自分を信じることをやめて、むしろ疑念を抱くべきだと思うんです。
しかしそうなると、自己をどのように規定し、そして自己の感覚をどのように養えばいいのかがわからなくなりそうです。
内面の世界への探究に頼れないとなると、自分の足場が揺らぐように感じる人もいると思います。
この問題を解決するには、まずは確固たる自己というのは内面ではなく外の世界や他者との関係性によって規定される、という根本的事実を認識することが最初の第一歩となるかもしれません。
自分が生まれ育ったルーツ、所属しているコミュニティ、友人との関係など、そういった様々なものから自分を切り離すと、結局は自分の内面だけに答えを求めるようになってしまう。
自分の内面に答えを求めることの危険性に関しては、先ほど示した通りです。
次に、自己の感覚をどのように養えばいいのかについてですが、僕が今のところ一番納得している答えの1つとして、やりたくないことをやるということが挙げられます。
ポテチを食べたくても我慢するという小さなことでも良いし、普段は自転車で買い物に行くのを敢えて徒歩で行ってみる、というのもいいかもしれないですね。
あとはコンビニの募金箱に100円玉を入れてみるとか。
つまり、こういった自分の習慣や欲求に逆らった行動をすることこそが、自分が自分である自己の感覚を養うための一番良い方法だと思うんです。
習慣や欲求に基づく行動は、自分の意思がなくてもできます。
そういう意味で、やりたくないことを敢えてやってみる価値はありそうです。
もっと言えば、これは下手な自分探しや自己分析よりも、よほど良い自己発見ツールになるかもしれない。
そのためには、まずは自分の内面の声を信じるのをやめて、とりあえず疑ってみることが重要だと思います。