「人それぞれ」という無価値な言葉について

僕は、何かしらの意見が飛び交ったときに何でもかんでも「人それぞれだよね」で済まそうとする考え方があまり好きではありません。

 

でも何かで議論になりそうになると、大抵そのひと言が出てくる。

 

そうやって言えば相手の意見を無力化できると思ってるし、実際そうなってしまう。
一種の拒絶です。

 

自分の意見に対して少しでも異を唱えられようものなら「でも私の主観だから」「でも人それぞれじゃない?」と言って防御壁を張るわけです。

個人の主観であれば議論の俎上に乗ることはないと思っているのかもしれません。

 

しかし、本当にそうなのでしょうか?

主観こそ客観的な物差しが必要ではないでしょうか?

人は、主観的で言語化しづらいものと向き合ってきたからこそここまで進化することができたのではないでしょうか?

 

例えば、心理学は統計などの客観的なデータに基づいて、人間の行動から心や感情を分析する学問であり、今ではそれが当たり前になっています。

しかし、昔は科学的手法が確立していなかったために観察研究やケーススタディに頼らざるを得なかった。

心理学といえばフロイトユング、今だとアドラーが有名ですが、彼らの心理学は厳密な科学とは言えず、ほとんど個人の思想的なものでした。

なのでその頃は、「人の心や感情なんて人それぞれだよね」なんて事が言えてしまった時代でもあったと思います。

 

しかし、今では心理学の客観性はより向上しています。ランダム化比較試験などはまさに革命だと思います。

しかしそこまで辿り着けたのは、フロイトユングなどの心理学の巨人たち、そしてそれに続く心理学者たちが、「人それぞれ」を「人それぞれ」のまま終わらせず、真理の探究に努力を惜しまなかったからではないでしょうか?

ここで補足すると、

フロイトユングの心理学が個人の思想的なものであるとは言いましたが、それはあくまで「今と比べて」という意味です。

彼らはその時代にある知見や基準を使って、客観的であろうとしていました。

 

元々は主観でしか説明できなかった物事に、客観的な基準を持たせようと努力をしてきたわけです。

 

僕は自分の意見を言うとき、あるいは自覚したとき、まず「何に基づいて?」という問いを自身に投げかけます。

主観で終わらせたくないからです。

 

主観を主観で終わらせるということは、自分の意見が単なる気まぐれであることを認める事です。

気まぐれであるということは、自分の意見が他人の気まぐれによって簡単に崩れ去るということです。

これを許せば、自分の意見を持つ意味がない。

 

自分の意見が何に基づくものなのかを知らなければ、「正しい」とも「間違っている」とも言うことはできません。

 

僕たちが1+1=2を正しいと言えるのは、それが算数のルールに基づいた答えであると知っているからです。

しかしこれだって、元からそこにあったわけではありません。

神から与えられたものでもありません。

太古の昔に人々が、元は主観だったものを言語化し、議論し、妥当な基準を設けたからです。

 

気まぐれな意見とそうでない意見の違いは明らかです。

客観的な基準や前提に則って、演繹的に導き出したかどうかです。

ちなみに、客観的な基準に基づいている=真理ではありません。

「基準」というのは、言い換えれば「条件」です。

科学の研究で言えば、実験室で得た結果と実社会での結果が同じとは限らない。条件が複雑になるからです。

それでも、何かしらの条件を設定することで、真理に近づくことはできますし、少なくとも「この条件下であればこの答えが正しい」と言う事ができます。

その上で条件を変えたりして追試を行うことで、より良い答えを目指せる。

ベストではなくベターを探すというのが真理の探究です。

 

これは、食べ物の好みに関する議論でも同じ事が言えます。

例えばAさんはブロッコリーが好きだとします。僕はあまり好きではありません。

これを「人それぞれ」と言ってしまうのは簡単ですが、僕はAさんに問いかけます。

僕「ブロッコリーの何がいいの?正直あんまり美味しいと思えないんだけど」

 

Aさん「うーん、味というより食感かな。シャキシャキした食感に、オリーブオイルを和えて塩胡椒かけると最高だね。」

 

僕「でもそれ、キャベツとかでもよくない??」

 

Aさん「まぁ味だけで言えばね。ブロッコリーにはスルフォラファンという抗酸化物質があって、老化対策もできるんだよ。さらにそこにオリーブオイルをかければポリフェノールだって摂れるから、これほど良い組み合わせはなかなかないよ。」

この場合、Aさんがブロッコリーを好むのは、美味しいからというよりも栄養価が高いという食材の知識に基づいた考えであることが分かったわけですね。

僕の健康意識がそれなりに高ければ「あ、それなら食べてみようかな」となるかもしれませんし、思わぬ発見や共通点を見出せることだってあります。

「人それぞれ」で話を終わらせてたら、この発見もなかったでしょうね。

 

つまり、「人それぞれ」であるからこそ議論の対象になるし、その価値があるんです。

 

ちなみにこの記事を書いてる途中で思ったのですが、「意見は人それぞれ」という言葉は同語反復ですよね。ほら、最近流行った小泉論法ってヤツです。

 

意見というのは、その性質からして何者かへの反論です。

「人を殺してはいけない」とわざわざ意見しないのは、「人を殺してもいい」と意見する何者かがいないからです。

 

意見が反論という性質を帯びている以上、「人それぞれ」なのは当たり前なんですね。

わざわざ「人それぞれだよね」と言うのは、「冷蔵庫の中身は冷たいんだ!」と言ってるのと本質的に変わらないと思うんです。

 

とはいえ、これは議論というワードが勝ち負けや自身への否定と連想システム的に結びついてしまってるというのもあるような気もします。

議論の本来の目的を多くの人は忘れてしまってるんですね。

それは真理の探究です。

違う意見を互いに交わすことで、より良い答えを探す。

そういう意味で、議論はむしろ負けた方がおトクかもしれません。

先ほどのブロッコリーの例で言えば、僕はAさんに議論に負けたことでブロッコリーの価値を知ることができたのですから。

 

「人それぞれ」から成長はないんです。