「善悪は人それぞれ」という悪

多様性が重要視される現代社会では、

「善悪なんて人それぞれだよねー」と言ってる人を所々で見かけます。

僕としては、この考え方はおかしいと思ってる人間なので、今回はそんな思想をズタズタに切り裂いていきたいと思っているわけです。

まぁ、一見すると人の個性を尊重してそうな雰囲気があるし、これを言うだけでなんとなく思慮深くなったような気分になるのかもしれないですが・・・

 

この考え方は哲学の世界だと「相対主義」といって、すべての道徳観は人によって違うのだと言ってるわけです。

しかし、この考え方は明らかにおかしい。

相対主義が「すべての道徳は相対的である」と言うとき、それ自体が絶対的な主張になってしまってるわけなので、矛盾してますよね。

 

そもそも「善悪は人それぞれ」って、普通におかしい。

 

例えば、これは僕が過去の職場で体験したことなんですが、

約1年前、職場のチーム内で陰湿ないじめが起こったときに、上司がこう言ったんです。

「これはどちらが悪いとは言えないよね」と。

僕はこの時(あ、この上司逃げやがったな・・・)と思いました。

この上司は、善悪のジャッジを下す責任から逃れるために、中立に逃げたわけです。ちなみに被害を受けた子は一ヶ月も経たないうちに辞めました。

 

いじめでどちらが悪いかなんて明らかなはずなんですが、加害者が多数派だったからなのか何なのか、不自然なくらいに中立に逃げてたなぁという印象です。

確かに、中立ってかなり安全なポジションなんですよね。だからこそタチが悪い。

 

「まぁ社会ってそんなもんだよね」という意見もあると思いますが、そういう卑怯者が集まる社会だからこそ、善悪の基準を主観に委ねてはいけないんだと思っています。

こういう考え方が蔓延するから、被害者側も「自分にも何か悪いところがあったんじゃないか」とか余計なことを考えるようになるんじゃないでしょうかね・・・

 

まぁそれはさておき、

物事の善悪は、主観ではなく客観的な物差しで判断できるはずだというのが今回の記事で一番の核となる部分です。この考え方はオブジェクティビズムという、アメリカの思想家であるアイン・ランドが提唱した哲学に基づいています。(オブジェクティビズムについては適当に調べてみてください。)

もちろん、どちらにも非があって判断が難しいケースもあるのは確かです。

重要なのは、中立のポジションに逃げないことだと思っています。

中立はあくまで問題の全体像を見渡すための一時停止の場所であって、目指すべき場所ではない。

 

結論として、「善悪は人それぞれ」という主張は単なる逃げ文句でしかないので、騙されないようにしようってことです。